M.nagaoka’s notes

~ Treat yourself, well ~

親の目線と「自己一致」

トーク&ライブvol.2 が終わって、とんでもなく思考も感情も動いたので、振り返りを少し。

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実は前回(7月のvol.1)、「ライブ」自体は悪くは無かったけれど(=歌はいつも通り、ていう意味)、すごーく自分の中で違和感が残っていた。モヤモヤ。なので、何があんなにモヤモヤしたのか、終了後しばらくあれこれ考えていた。

一つは明確で、当時はまだ外に公表してなかった、くるみさんの活動休止のこと
当たり前と言えば当たり前だけど、自分自身の渾身の音楽表現には、いつも横にくるみさんが居たので、あの日、客席に座って笑ったり涙する相方をステージ上から見ているという状況に、自分でも想像してた以上に、戸惑った。
ああ、本当にくるちゃんはしばらくお休みに入るのか、私は本当に1人になるのかと、本番中にすごく悲しくて。けれど、その感情を味わえたおかげで、終わってからきちんとくるみさんへ感謝を伝える良い機会になった。(その時、くるちゃんが「Little'sが一旦節目を迎えて、長岡美幸さんと藤田くるみそれぞれの新しい始まりなんですね。」と言っていたのが、とても心に残っている。)

 

* 

 

そして、もう一つの違和感。これはだいぶ時間をかけて考えた。それはどうやら、これまでの「ライブ」を、「トーク&ライブ」にしたことで、起きたこと。

 

モヤモヤを紐解いてすぐに出てきたのは、

心理学講座の時みたいに、のびのび話せなかったな。。。

ということ。この2年半、大学講義や体癖論講座などで「話す」ことを仕事にしてきて、いわゆる先生業をしている時の’自己一致’の頃合いが良いというか、在り方として自分がとても心地いい。この自分なら、自分も他者も上げもせず下げもせず、目の前の人とトータルにやり取りができる、という感覚。

なので、今の自分のベストオブ「在り方」の①歌い手と②話し手のそれぞれを融合したら、結果的にもっと良い場ができるんじゃないか?という思いもあって、「トーク&ライブ」を始めた。

 

けれど、Vol.1で「トーク」をしている自分は、

ちゃんと話せてはいるけど、どこか浅い。

ほんのりだけど、嘘をついてる感じもする。

 

違う言い方をすると、

何かを隠している感じ。

 

うーんうーん。

 

…あ、、親の目線を気にしてる…!!!

 

行きついたのはそこだった。

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その日は母親も父親も会場に居たのですが。内観していると、

「母親の前で、ほんとうのことを言ってはいけない」

というのが、まだあるんだなーと。

 

幼い子どもにとって、母親は「世界」そのもの。

 

人はどうして生きるの?

なんで生きるのに、死ぬの?

 

「ほんとうのこと」を聞きたがると母親が困った顔をすることを、子どもながらに「いけないこと」だと思い込んだんだろうな。(※母親が悪い、という意味ではない)
だから、生き死にに限りなく近いところで「本当の話」をしたがる「話し手」としての私に、幼い頃に凍結した感情や長年の思い癖がブワっと湧き出て、ブレーキをかけたんだと、じっくり観察していて、よくわかった。

 

 

「自己一致」とは、「純粋性」とも言われる。
いかに等身大の自分で、クリアな感覚で、人に場に相対できるか。

 

違和感をたっぷり観て、どんな自分を出しても大丈夫という「母親への信頼」そして「自分や起きること全体への信頼」を再確認してのぞめた今回のトーク&ライブ。

Celebrationというテーマで、ただただ自分の内側から出るものを出せて、気づけば阪神大震災のこと、その時の母のことにも話が及んだりもした。今回は、何も隠さず、ただ「わたし」で在れた気がする。そしてたぶん、空間全体でそれは響き合ったんじゃないかな。

 

…ちなみに「歌い手」としての自分は、もはやどこで歌おうが、誰に見られようが、ブレってほとんどない。これはトークでも少し話したけど、Little'sの活動の中で自己受容が限りなく進んだことと深く関わっている。そんな話も、また。

 

 

Talk&Liveでやりたかったこと。

 Vol.1振り返り記事より)

 

あの場で、私自身が「何」を表現したいか、ってことに尽きる。
それはもはや、歌そのものではなかったりする。あ、空間づくりだ。

 

そうね。「話し手」とか「先生」とか「歌い手」とか、職業名とか修飾的なことではなくって、もっともっと純粋な、「自己表現」だ。

 

楽しい表現の探求は続く^^