M.nagaoka’s notes

~ Treat yourself, well ~

Q. 成熟って? - 問うて、熟す。完成しない人間の話

私塾内ではここ数日、先週のnote記事(「成長」と「足るを知る」どちらが大事?)から派生して、「ちなみに成長と成熟はどんなふうに違う?」ってなテーマが話題になったりしていました^ ^ ちょっと立ち止まって、そんなことを考えてみるのもまた豊かな時間ですよね。この読み物がそういうきっかけになっていたなら嬉しいです。

さてさて、今回は前回コラムのもっと先、

Q.成熟って、どんな感じ?

この問いに、人間探究バカ(私)なりに応答してみたいと思います!

■①「未熟さ」を、否定材料にしない。

成熟の反対は「未熟」ですね。多くあるパターンとして、自分の中に「未熟さ」を見つけた瞬間、「こんな自分はダメだ」と自己否定するケース。これが癖になっている人はもう、秒でやります(笑)
「未熟=はい、ダメ!」の、音速ジャッジ。光の速さで自己否定!笑

これは防衛反応と言えます。自分を守る現象ですが、防衛は「行為」ではなく「反応」です。未熟さを発見した際、そのこととじっくり向き合ったり扱ったりせず、自動的に反応的に「未熟な自分=ダメ、無価値」などと否定し苦行のように能力や人格を改造する方へ仕向け続ける。一見、努力家や謙虚な人にも見えますが、これがパターン化している人は、”未熟でダメな自分”というバランスをキープし続けることで、何らかのメリットを得ている(守っているものがある)んですね。人から指摘されることを先回りして避けるとか、本来の自分はもっとできるはずだと思い続けられるとか、そういうことです。いずれにせよ、そのモード下において、「成熟って?」なんていう最適解もベストも無い、しち面倒くさくて泥臭いテーマ、扱えるわけがないんですよね。

受け取り間違って欲しくないのは、長い人生、防衛反応で生きるしかない時期やシーンなんて、誰にだってあります。だから、「全自動自己否定・苦行系努力家的」な枠に自分を押し込む反応それ自体は一つの安全策的重要機能。ですが、これ一辺倒というのは、やはり成熟した態度とは言えません。

(※同じような構造で、自分の至らなさを見て見ぬふりし「これは未熟さではない!」と自己正当化する防衛パターンもありますね。自己変化を忌み嫌う虚勢的でマウンティング的な態度と言えますから、やはり成熟など扱える状況には無い。)

この点において、成熟と向き合うのが上手だなと私が感じる人は、自分の内側に未熟さを見つけたときに、それを事実や情報として扱えます。でも、自己価値の問題と混同しない

たとえば「嫌な言い方をしてしまった」「人をコントロールしようとした」「判断を見誤った」。そんな瞬間があっても、

反応的に「だから、私はダメだ」と否定したり「でも、自分は間違っていない」と正当化したりせず、

「うん。まだまだだな。」
「あぁ、良く無かったな。」
「他にもっと良い選択があったな。」

と、適切に距離を保って事態を観察し、判断や解釈を紡ぐことができること。その態度を崩さない。そんな人達です。

そう思うと、こんな感じで自己の成熟という内的テーマをまっすぐ扱える人って、対概念の「未熟さ」の扱いが上手な人、とも言えますね^ ^

ということで、1つ目のアンサーは、

成熟した人とは、未熟さを素材として扱える人

でした。

■②成熟を、「目指すもの」にしない。

さて、読み手のあなたの思う「成熟した人」って、例えばどんな人でしょうか?人はそれぞれ、自分の中に「成熟した人のイメージ像」を無意識のうちに持っています。

ただ、そのイメージが凝り固まった状態のことがとても多い。

よくあるのが、

「成熟している人なら、怒らないはず」
「成熟している人なら、動じないはず」
「成熟している人なら、もっと寛大なはず」…etc.

当人の経験や自己評価、そして文化背景などもあいまって、「こうあるべき成熟した人像」はできあがってゆくもの。これが固定化し、問い直すことが難しくなっている場合、往々にして

・理想像と現在地の単純比較
・能力の優劣評価

になりがちです。①の未熟さを素材として扱えなくなる理由の一つが、「成熟した人はこうあるべき」という固定像を握ってしまうこと。そしてこの分かりやすい”成熟ゲーム”はやはり、成長至上主義的構図(※前回参照)に陥りやすい。

・・・成熟のテーマって、そんなに単純で、単線的で、薄っぺらいものでしょうか?

ぱっと思い浮かぶだけでも、自己認識や世界認識の成熟度、精神性の成熟具合、他者存在との関わり方の成熟加減、判断や意思決定の成熟さ…など、など。成熟って、とても多義的で多層的で、考え甲斐のある骨太な探索テーマだと思いますし、実際のビジネスシーンや人生の局面においては、ある場面では自分の信念を守ることが大事で、別の時はそれを捨てることが必要だったりする。

つまりその都度、「この状況では、どう在ることがより成熟した態度か?」を問い直しながら生きてゆくもの。

常に怒り散らかしている人よりは、怒りを出さずにいられる人は成熟しているなとも思いますが、目的や必要に応じて感情表現を選べる人は、より熟した態度だと私は感じます。

寛大さを学ぶことはもちろん成熟の一端ですが、寛大であらねばと自分を見失うくらいなら、頑固に大切な何かを守り抜いて欲しいとすら、私は思います。

つまり

成熟している人とは、「成熟した人」ではなくて、「成熟という問いを手放さない人」

目指すべき像から、問いへの転換

これが、成熟に関しての、私なりの2つ目のアンサーです。

■③取り入れ方

なお、おすすめの取り入れ方としては、①→②(=まずは未熟さの扱いが上手になって、その後に成熟を問い続けることを意識する)ではなく、とにかく②!です。とにかくまず、【成熟という「問い」を保持する】という観点のインストールが肝心要。

なぜなら、実はこれを書いている私自身、①で書いた例のように今でも未熟さを発見しては音速で自己否定し天を仰ぐことなど、日常茶飯事だからです^ ^

驚いたでしょうか?あれだけ強い語調で書くなら、長岡さんは一切未熟さを自己否定なんかに使ったりしないんだな、と思ったかもしれませんが、そういう話ではない(そうは書いていない)んですね。
元が理想主義で人並以上に考え込みすぎる質の私のこと、ちょっとしたコンディション不良で当然のように防衛反応は起きます。ナチュラルに①ができる人はそれでOKですが、私にとって未熟さに凹むこと自体は自然現象。ただしその後、これまた光の速さで、「じゃあ、どう在りたい?」「どうすれば、成熟した態度を発揮できる?」と、②のように問いを差し出すことができるんです。

私がこの手のことを語り、自分とは全く異なる才能や技術や人格を持った方々の思考を、そして成熟の過程を伴走できるのは、単に「問う力が強い」だけ。私ができるのは、様々な葛藤の中で『じゃあ、どう在りたい?』という問いを自分(や目の前の人)に差し出し続けること。ただ、それだけなんです。

もちろん、成熟を問い続ける態度には、相応の知的体力が必要です。簡単なこととは言いません。ですが、これに慣れてしまえば、未熟さ由来の防衛反応すら、解決すべき問題ではなくなってしまうのです。

まずは問う力。まずは問いの観点。ということで、

Q1. あなたがこれまで「成熟した大人なら、こうあるべきだ」と信じ込んできたイメージがもしあるとしたら、どんなもの?

Q2.それを一旦脇に置いてみたとして、本音では、あなたはどんなふうに熟してゆきたい?

ぜひ、考えてみてくださいね。

■最後に

この世に生を受けた瞬間から死ぬ時まで、人は自分自身の変化を観察し続けます。

昨日の自分と今日の自分。かつての判断と、今の判断。若い頃には見えなかったものが見えてきたり、逆に、あれほど握りしめていた価値観を手放す日が来たりもする。

そうやって人は、少しずつ、自分の在り方を更新していく。

そのプロセスのどこかに「成熟」という言葉を当てはめることはできますが、それ自体、自分自身が事後的に行うこと。何かを目指せば自分の外側で完成するような種類のものではありません。

これからも、私もあなたも、自分自身の様々な変化を目撃し続けることでしょう。生と死のはざまで、成熟という問いを手放さずに生きていくことからはブレずに居たいなと、そんなふうに思っています。

それだけで十分、人はきっと、少しずつ熟していくのだと思います。(おわり)


*このコラムは、ここ数年の自分自身の「飽和感」「頭打ち感」を脱したいがために、好みのスタイル(個の問いに答える)に終始するでもなく、かと言ってハウツー的に道具化するでもなく、「一つの問いに応答し、語る」ことに挑戦しようと綴り始めたコラムです。お読みになって理解に苦しむ部分やご指摘などありましたら、ぜひコメントをお寄せください^ ^

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