
Q&Aシリーズ。今回は、
Q.個人セッションなどで、長岡さんが「これだけはしないと決めていること」や「避けていること」があれば聞いてみたいです。
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とのご質問に回答してみます!(質問ありがとうございます^ ^)思考整理や概念設計、それに伴う内面変容といった個人支援の現場で、私自身が何を基準にして、何に・どんなふうに気を配っているのか、といったことですよね。
この手の話題って、コーチ業やセラピストさん、マネージャーやリーダー層の方であったり、対人支援・教育、表現や場づくり等で「個の支援」に携わる方々には特に参考にして頂きやすい印象。何か一つでも、参考になれば!
■⓪されて嫌なことはしない。
入口にして出口のような回答になるのですが、これが大前提、土台部分にあるかなと思いました。
「人と話しながら考える」際、自分がされたくないことを、人様にもしない。
こう書くと当然のことのように読めますでしょう?小学生かよ、みたいな。
…でも、できていない時、ありませんか?例えば
・全否定されたら誰だって嫌なのに、そんな態度を自分が取っていた。
・軽蔑されたら自分だって嬉しくないのに、言葉の端々に滲み出ていた。
・境界線を無闇に越えて欲しくないのに、自分は踏み込んでしまう。
など。
私自身も昔、無意識のうちに他者(相談者さん)に権威的な態度を取ってしまったり、本意でない言葉遣いをしてしまったりした経験がありました。そういう時って、クライアントさん本人が気にしているかどうかは別として、セッションや講義の後、自分自身の側にモヤっとした身体的な違和感が残っていたんですよね。後悔とも焦りとも何とも言い難い感覚と、それでいて同時に「いや、あれで良かったはず。だって…(モゴモゴ)。」など、どこか自己正当化したくなるような。
振り返れば、あの頃は「"自分"として、人前に立つ」ことが、全くできていなかったんだと思います。そんなつもりは無かったけれど、ちゃんと、引き受けていなかった。過去に自分の相談に乗ってくださった先生・専門家の方、尊敬する先輩や知人…様々な「支援者像」が表層的に浮かんでは追いかけ、どう振る舞うべきか正解が分からないから、まるで他者をトレースして喋る、みたいな、そんな感覚もあったようにも思います。お恥ずかしい限りです。
誰にだって、どんな仕事にだって「駆け出し」の時期というものはありますから、守破離の「守」のフェーズは必要です。理想像を降ろしてくる、みたいな技法そのものも、当然有用なことの一つですから。
ただ、「自分がされて嫌だったのに、人様にしてしまっている」というのは、まず自分自身を省みるポイントがある、ということです。明らかなる伸びしろです。
過去に攻撃された他者を内面化しすぎているかもしれない。未処理の感情を反復してしまっているかもしれない。自他境界が曖昧になっているサインかもしれない。役割依存が過ぎているのかもしれない・・・etc。
私は最初から器用に何でもできるような人間ではありませんから、数々の苦い経験を経て、その都度自分を振り返り、「もし同じようなことがあったら、次は絶対こうしよう!」など、半歩ずつ自分で自分を引き上げて来たように思います。この試行錯誤があって、30代も後半になった頃にようやく、「自分なりの型」みたいなものが立ち上がって行きました。もちろん今だって、これからも、その道程にいます。
時には、自分はされたら嫌なことでも、何か目的があって”あえて”人様にそれを施す、みたいなことが必要なシーンもあるでしょう。でもやっぱり基本的には、自分の思う、誠実な自分でありたい。
自分なりの美学の更新中、という感じでしょうか。ここをベースに、以降、もう少し具体的なことを書きますね。
■①一緒に深刻にならない。
ぱっと思いついた、私がセッションなどで「しない」具体的なことは、まずこれ。クライアントと一緒になって、深刻にならないことです。
自分自身に何か大変なことが起きたとして、相談相手の側に「深刻に」なって欲しいですか?私はなって欲しくないですね。
私自身、どちらかと言うと想像力豊かで同調感度も高い方だからか、学生時代などは友人の相談に乗っていて自分の側も一緒に辛くなってくる、といったことがよくありました。
もちろん、相手の”大変さ”に対して「共感的態度」でいる・それを示すこと自体は、対人支援プロセスにおいて重要なことです。あえて言葉にすることも憚られるくらい、聴く仕事の”いろは”的技法ですよね。
ただし、共感や理解を示すことと相手と「同化」することは、全く別物です。
私の提供する思考伴走系のセッションでは、時にとても内面の深い部分を扱うことがあります。たとえ相談内容自体はビジネス面のクリエイティブなことであったとしても、意図せず、ご本人が蓋をしてきた感情が噴出することもありますし、100人いたら100人が満場一致で「それは大変な事態ですね。」などと言いそうな、いわゆる深刻なケースも当然扱います。
けれど、どんな事象であっても、それに「どのように相対するか」は、選択できます。渦中にいる当事者はなかなか理解が追い付かないことがほどんどですが、「深刻っぽい事象」に「深刻に対応する」って、実のところ1mmも必要無いことなのです。だからあっけらかんとしろとか、常に軽やかでいるべきだ・落ち込むな、などと言いたいわけではもちろんありません。ただ、少なくとも私の場合、役割はあくまで「共に先へと進む人」ですから、「一緒に深刻になってしまう」だけでは、癒しにこそなれ、客観性が損なわれ先へと足取りをサポートすることができません。
知的体力の下がっている時、人は「深刻さ」と「真剣さ」を取り違えます。比較的重たい内容を扱う相談業の方や支援業の方は、自身の態度でもってこの違いを示せると良いですよね。
なお、自他境界が曖昧な支援者さんほど、クライアントさんの深刻さに「同化」しがちです。気になる方は、「Q.自分の役割は何?」「Q.この対話の目的は?」と、問い直してみると良いかもしれません。
■②縮めない。
私の得意領域でもあり、思考整理や概念設計上とても重要な役割の一つが、「要約」や「翻訳」。
こちら、冒頭の「自分がされて嫌なこと」のかなり上位に来ることの一つでもあるんですが、
「つまり、こういうことですよね?」と言われた内容が、「なんだか、ズレている」。
…日常会話「あるある」だとは思いますけれど、されるとめちゃくちゃ嫌なんです、私は(笑)。これは単に自分が言語領域そのものが好きだったり、大切にしている分野だからでしょうね。なので、提供側として立つ場面においては、この「なんか、違う。」を引き起こさないよう、自身のリソースをふんだんに注いでいます。
例えば、クライアントさんから「事業コンセプトの言語化」を相談頂いているとして、過去の実績や経歴を教えて頂き、そのコアにある価値を言葉で掬い上げるとします。
「つまり、あなたは〇〇を提供しているんですね?」
「ということは、あなたが大切にしたいのは〇〇ですか?」
といったシーンです。ここで上がった言葉にご本人が膝を打てない(違和感やズレ感を感じる)時というのは、大きく外しているというよりも、「部分を切り取られた感じがする」「嘘ではないけれど、言い得てはいない気がする」という感覚だと思うんですよね。
要は、ほとんどのケースが「要約」も「翻訳」もできておらず、「矮小化」してしまっている可能性が高いということ。ここをきちんと疑った方が良い。
この例のように、その道のプロフェッショナルであればあるほど、その専門領域に深く潜って来た時間が長く、膨大な情報や経験を保持していますから、その全容を客観視することが時にとてつもなく難しくなってしまうもの。知り過ぎていて、大切すぎて、うまく言えなくなるんですよね。
その他、感情や内面の「言い換え」や「整理」のシーンでも、ここに「矮小化」が起きると、内面で強い反発や防衛が起きることは当然のことですね。
…「整理」「要約」「翻訳」の場面では、いかに支援者側が高い・広い視点で言葉を提供できるかが問われます。これは支援業の立場でなくとも、人と会話をするあらゆるシーンで活かせることだと思います。
縮めない。小さく扱わない。
全体像を掬い上げる。
これがポイントです。
「つまり…」を多用する人で、クライアントやチームメンバーから怪訝な顔をされることが多いかも…、なんていう方は、参考にしてみてください。
■③言い当てない。
相手の内面が手に取るように分かる(気がする)ことって、ありますか?
一般的に日本では”慮る”ことを良しとする文化ですから、洞察力の高い人も多いのかもしませんね。先の質問に「そりゃ、あるよ。」と返答したくなった人も実際多いのではないでしょうか。私もその一人です。
今これを読んでいる方のうち私のクライアントさんや仲間であれば、「長岡さんは言わなくても分かってくれて助かる」「むしろ隠し事ができない…。」「自分以上に自分を分かってくれている。どうやっているの!?」みたいな感想を持ったことがある方も多いように思います。よく言われるので。
これは何も特別な能力というより、日々鍛錬に鍛練を重ねている技能なので自分としては当然のこと(ちょっとマニアックに追究し過ぎてはいるけれど笑)。そして、洞察的態度を長所としている人は、支援系の立場なら少なくないように思います。
…ただ、この、世間的には”良いこと”とされやすい洞察力の高さって、思考伴走時は慎重に扱うべき技術の一つだと思っているんですね。
30歳前後、まだ講師業がメインだった頃の私には、「本音は、言葉にした方が良い。」「本当のことは、分かっていた方が良い。」といった盲目的な思い込みがあったように思います。
「実は、〇〇が嫌なんですよね?」
「本当は、こういうことが言いたいんですよね?」
など、本音や本心、当人がまだ言葉にしていないことを言い当てる(そしてそれが実際本人の感覚と一致していた)時って、まぁ…それ自体は気持ち良かったりしますしね^ ^;
ただ、クライアント本人がまだ表現していないことの中で、本人が自覚しづらいこと・無意識に避けていることやタブー視が強いことって、多分にありますよね。
それを良かれと無遠慮に見える化してしまうことで、怖さや不快感を与えてしまったり、認識が追い付かなかったり、ということは多々起きます。(※深い部分で人を見てきた経験値の高い人ほど、よく伝わる話だと思います。)
「自分が察する」ことと、それを「相手に伝える」ことは全く別の挙動です。言い当てることが、結果的にクライアントさんの目的に良い影響を与えないこともあるんだ、とまっすぐに経験的理解を重ねるにつれ、言語化を本人が望んでいるか等を丁寧に確認し合いながら、「あくまで私の予想ですが」など前置きするなどして、一方的に言い当てないよう、丁寧に扱うようにしています。難しいですけどね。私の仕事は思考整理や志の具現化の伴走であって、「真実の言い当て業」ではなかったのですから。
…この匙加減が苦手な人も、わりと多い印象です。洞察力の高い人で情報処理能力の高い人は、結構、言っちゃう。または、全く言わず、自分の中で物語が暴走するパターンも。その多くには、「自分の見立ては、正しい。」という傲慢な誤認識や、言い当てることで得られる優越感を優先してしまう癖があるかもしれません。
少なくとも対人支援の場においては、洞察力の高さとは“一方的に言い当てる力”のことなどではなく、本人との確認を通じて、より精度高く理解に近づいてゆく力のことだと思います。本音や事実などというものは、当人の概念の中にしかありません。1人1人が、全く異なるものを見て、全く異なる事実を生き、時に本心や本音など、どこにも無いことだってあるのですから。
先の質問で、相手の本音が手に取るようにわかるということに対し「そりゃ、あるよ。」と疑いなく答えてくださった方は、ぜひこの項を頭からもう一度読み返してみてください。何か発見があるかもしれません。
Q.人の本音を完璧に言い当てることって、できますか?
Q.それを本人に伝えるかどうかって、何を基準に決めると良さそう?
小さな自己探究の、参考までに!
■④急かさない。
思考の処理速度って、人によってもかなり異なりますし、同じ人でも分野が変われば途端に得意不得意が出たり解像度に差が出たりするもの。前項③「言い当てない」にも関わることですが、表層的な思考整理ならまだしも、広い・深い範囲の内面を扱い、何かを生み出す際など、その思考プロセスには必然的に様々な山谷が起こります。
自分の技術で仕事をする人の多くは、自分の得意分野であったり努力を積み重ねてきた経験値の高い分野を生業にしますよね。私もそうで、基本的には、自分で自分の思考をアシストしてきた経験を、そのまま他者に転用しているんですね。
そうすると、どうしても、自分の方が(情報処理や理解・解釈が)「速い」という現象が起きやすい。経験値の豊富なことを仕事にしているんですから、当然です。
今でこそこの非対称性は常に意識してし過ぎることは無いと思っていますが、昔は
・どうしてこんなにシンプルなことが理解できないんだろう?
・前にも扱ったことなのに、なぜ同じことを繰り返すんだろう?
・気づきがあっても、また状態が戻ってしまうのはなぜ?
…など、上手にクライアントさんをアシストすることができず天を仰ぐことも多々ありました。この例だけでもいくつか丁寧に理解しなおすべきポイントがあって、
Q.こちらからは自明のことで本人は自覚しづらい場合、何がそうさせている?
Q.教えたり伝えたりすれば、人は理解するのか?
Q.何をもって、本人が「分かった」ことを確認できるのか?
Q.行動が伴わない場合、何が起こっている?
など、など。これらは、人間が「考える」という営みそのものについてはもちろん、人の「感情」や「行動」、「志の具現化プロセス」といった目に見えない分野の理解を一段と深め・解像度を上げ、またそのクライアント各々に固有の道を、いかに本人の足で歩むことをサポートできるか?という、支援者としての自分自身の深い探究が不可欠でした。
どんな物事にも、タイミングがあります。十分に時が満ちていないと起きないことが、ある。その条件を明確にすること。構造を理解すること。そしてそのタイミングを、支援者の側の都合で急かさないこと。せっかちな私にとって、今後も自分に言い聞かせ続けたいことの一つです。
待つこともまた、思考伴走時の大切な仕事です。
■⑤主権を剥奪しない。
最後はこれ。ちょっと言葉が強すぎるかもしれませんが、言い換えるなら「強制しない」「押し付けない」「勝手に決めない」といったことです。ここまで書いてきた各論も、最終的には全てここに集約されるといっても過言ではないかもしれません。
私の主催するワークショップシリーズに「ファシリテーション探究」というテーマがあって、対人支援職やリーダー層の方向けに自分の立ち位置や技術を俯瞰し直し深めて頂く内容で構成しているものなんですね。その冒頭で、それぞれこんな問いに答えて頂きます。
Q.これまでに体験した、あまり心地よくない・良い思いをしなかった「”支援され”事例」はありますか?
そう、今回の「⓪されて嫌だったこと」のことですね。支援系の職種の方って、勤勉な方が多く、自分自身が様々な技術提供を受けることで学んできた経験値が非常に高い方が多いこともあってか、それはもう、出るわ出るわ(笑)、「されて嫌だったこと」の経験談。
「コンサルさんの思う理想と同じ方向を向けと暗に言われ、嫌だった。」「セミナー主催者が強引で、テンションについていけなかった。」「コーチというより教祖様のような振る舞いだった…。」「マネージャーから私のやり方でやれば良いと言われ、窮屈だった。」etc.
あえて、これらよくある事例をまとめると、目的(ゴール)そのものや、目的地への向かい方(プロセス)を、相手に決められてしまうこと、だと言えそうです。こうされると当然、いくら手厚いサポートや教えを施されたとて、受け手の感覚としては「求めていない・やり過ぎ・なんか違う」といった違和感が勝る。
…でも、提供側の方達だって、自分が思考や心理、意思決定の主権を剥奪されることなんて、まずもって望んでいないと思うんです。
「人からされたら嫌なことを、自分もしない。」
あらためて、こんなにもシンプルなことなのに、なぜ無意識のうちに、やってしまうのか?
⓪の項目で書いたことの他にあるとすれば、答えはほとんどの場合、
「良かれ」と、善意でやっている
から。だと思っています。
失敗して欲しくないから、良かれと「最善策」提示する。
相手の成長を願って、良かれと「真実」を言い当てる。
これがセオリーだから、良かれと「正解」へと誘導する。
良かれと、言い換える。良かれと、先回りする。良かれと、排除する。良かれと、代行する。良かれ。良かれ。よく、あれ。
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人の内面で起こっていることは、文字通り、圧倒的に、どうしようもなく、「本人の中でのみ」起きていることです。
他人である我々支援者は、そこに多少なりとも関わったり結果的に影響を及ぼすことになることはあったとしても、究極、人の思考プロセスに直接的な介入は一切できません。
私の文脈で言えば、
本人の感情をいくら推測でき言語化のアシストができたとしても、それそのものの輪郭を縁取ることができるのは、本人だけです。
本人から溢れ出る事象をいくら鮮やかに翻訳できたとしても、それを採用するかどうか決めるのは、本人です。
いくら志の実装プロセスを共に立案したとしても、実行するのは本人です。
何を感じ、何を望み、何を大切にして、
どんな言葉を使い、
どのタイミングで、どうしていくのか。
何を選び、何を選ばないのか。
良かれと、勝手に「正しそうな所」へ連れて行かない。
そうではなくて、本人の意思決定の現場に立ち会うこと、そのプロセスを共に創り、よろこぶことが、私の仕事なのだと思います。
私が今よりずっと力不足だった頃、悪くはないけれどさほど切れ味の鋭いセッションを提供できていなかった時も、私は常に全力でした。だから、あの頃の自分を殊更に否定するつもりはありません。
けれど、あの頃と今の自分とが圧倒的に違うことがあるとすれば、「人の内側を、他者が代わりに生きることはできない。」 - この明快すぎる真理を、腹の底から理解した場所から、振る舞うようになったことかもしれません。(おわり)
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今回のご質問「やらないこと」って、とても良いテーマですよね。自分の仕事の核を言葉にし直す、とても良い機会を頂きました^ ^
読んでくださったあなたの「しないことリスト」は、何ですか?
よければ感想やご意見、質問など送ってくださいね。(質問・リクエストBOXはこちら📫)
では!
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