
今日はこの話題!
Q.なぜ良いことをしていても、報われないのか?
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周囲の、本当に「素晴らしい」または「良いこと、善いこと」をしているように見える人ほど、売れていなかったり、認められていなかったり、なんだか報われていない感じがする、なんでやねん、と。ざっくり、こんなご質問でした^ ^
この質問に対して「分かる!」と感じる人は、自分もその傾向があるなと認識している人か、もしくは周囲のそのタイプの人を見て「勿体ない」「もっとうまくやればいいのに」と思っている人か、どちらかかもしれないですね。
まず押さえておきたいのは、「良いこと」かどうかと「報われる」かどうかは、そもそも別で考えるべきこと。
何をもって「よい」とするか?は、本人と受け手それぞれの価値判断のテーマ。
何をもって「報われた」とするかは、本人だけの欲求や充足のテーマ。
そして、どれほど誠実に仕事をしていても、素晴らしいものをつくっていても、それがそのまま「知られる」「選ばれる」「お金になる」とは限らない。我々が生きるこの世界は、その人や活動の「よさ」を誰かが自動的に見つけてくれて、一義的に正しく評価してくれる、といった、神様兼審判のような存在を前提とした仕組みにはなっていないんですよね。
それで言うと、時に逆のように見えることさえ起こりますよね。
例えばインテグリティ(真摯さ)を保とうとすればするほど、物事を単純に言い切れなくなることがあります。例外もある、別の見方もある、自分にも分からないことがある。誰かを不用意に煽ったり、過剰な約束をしたり、自分だけが「正解を知っている」ようには、とてもじゃないが振る舞えない。
一方、「これが正解」「あなたがうまくいかない理由はこれ」「これさえやっていればいい」など強く言い切るもの、「迷いなく進む方向を示してくれるもの」は、実は恣意的であったり教祖的であったりするのだけれど、それってとても、分かりやすい。複雑な現実を単純な物語にしてくれたり、迷っている人に確信を与えてくれたり。こちらの方が大勢の人を惹きつける力を持つこともあると、私もそう思います。(少しくらい恣意的であっても、分かりやすく強い物語の方が流布しやすい。ーー 残念ながら、私たちはまだ、そういう社会を生きているんだと思います。)
つまり、「善いものほど評価される」とは限らないだけではなく、誠実さゆえの複雑さや慎重さが、市場や世間では不利に働くことさえある。
もちろん、だからといって「うまく見せた者勝ち」とは思いません。
おそらく、質問者様が大事にしたいこと、本当は実現したいことは、「自分が(仲間が)本当に差し出したいものの質を落とさず、核を外さず、それがまっすぐ届く道筋までつくること」ではないでしょうか。
良いものをつくることと、それを伝えること。
誠実であることと、対価を受け取ること。
誰かの役に立つことと、自分自身の喜びが循環すること。
これらは本来、どちらか一方を選ぶ話ではないはずです。
「こんなによいことをしているのに報われない」と感じる時にできることがあるとしたら、それは「正当な評価がなされていない」と憤慨することでも、「価値を疑い、世間に合わせて曲げること」でもなく、その価値とは何で、それが世界とどう接続され、呼応しているか?という全体性を編み直すことかもしれません。
本当に「いいな」と思えるものを手渡すこと。
それを届けたい場所に届く形へ、翻訳・編集してゆくこと。
存外そこにも、かなり高度な創造が必要なのだと思います。
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