M.nagaoka’s notes

~ よく生き、よく歌う ~

他者を"正しさの証明"に使っていないか?

youtu.be

先日、山田ズーニーさんがこんなツイートをされていて。

自分の言葉で言ってみるのが大事なんだろうな。それをなんとなくサボっていると、自分に代わって自分の言いたいことを代弁してくれる人を探し、さまよい、見つけてのっかるようになる。やがてその人が自分の言いたいことを言ってくれないようになると、恨む。同じことでも自分で言ってみることが大切。

 

まさに「代弁してくれている!」と感じながら(笑)、これ、自分自身が「する側」としても「される側」としても痛みを予感するからこそきちんと感じて考えておきたいテーマだなぁと^^

例えばSNSで誰かの言葉をシェアする時って、大抵、「これ、私が言いたかったことー!!!!」っていう時ですよね^ ^

それ自体は何ら悪さのある行為では無いけれど、そこで「この人は私の言いたいことを言ってくれているから、素晴らしい。正しい。」を、(無自覚に)あまりにも強調し続けてしまうと、

他者を、”自分自身の正しさの証明”だけに使ってしまうことになる。

私たちが、生きる指針を求め、「師」や「マスター」を求めることはとても自然なこと。自分に無い他者を尊敬し、取り入れ、自分自身を磨いていく。

ただし、本当に本当に本当のところでは、

【自分が自分の人生のマスターである】

を生きる以外に、あり得ない。これって、他者を敬い生きることと全く併存すること(ここ大事)。

自分が自分の人生の主人公であり、師であり、善き友であり、見守り役であり、観察者である。

このことをじっくり感得せずに、要は「じぶん」を雑に扱うことと、他者への熱狂的な依存や祭り上げは、べったりと背中合わせになっている。

私も「長岡さんは変わってしまった」「私の期待していた言動・行動をしてくれなくなった」と怒りを向けられたこともありました。当時は悩んだ。自分がブレたからダメだったのかな…でも…!などなど考える本当に良い機会になったけれど、思い返せば、自分自身がまさに「じぶん」との付き合い方に、少し蓋をしていたから起きたことなんだろうな。

「あの人って素敵だな」
ということと、
「あの人は私の言いたいことを言ってくれるから素晴らしい」
って、似ているようで全く違う感覚だ、

ということに自覚的であることって、
自分にも他者にも、とても心地よい在り方だなぁ^ ^

ズーニーさんの言葉が、自分の一部分を代弁してくれている!と、まさに感じながら^ ^、わたしの感じている「この感覚」と、ズーニーさんの「それ」とが1ミリも違わず同じであることなんて、絶対に絶対に、あり得ないから。

だからこそ、自分の言葉で。
しゃべってみた!

どなたかと響き合えたら、嬉しい^^