M.nagaoka’s notes

~ Treat yourself, well ~

”じぶん”であれ!!ー久しぶりの対面授業

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昨日は本当に久しぶり、半期以上ぶりの対面での大学の授業でした。
よくニュースになっていますけれど、大学は前期はほぼオンライン、後期から対面授業を再開している感じなのです。私の担当する1年生達も、昨日の私の授業が入学して初めての集団授業になったようで、緊張感あるスタートでした^ ^
(長岡氏、ビシッともするけど、どこかフランクな「せんせー」なので(笑)、ちょっと緩んでもらえたら良いなぁとも思いつつ!)

で、授業を進めながら、もうもう当たり前なんですけど、何十人という人が「からだ」が一堂に会することって、すっさまじいことよな!!!!!!!と。もう、我々人間、一度に大量~~のやりとりを無言で交わし合ってしまっているんですよね。。。。!

不安だな。緊張するな。おもろい。仲良くなりたい。そう思ってんねや。あなたも?。うわ、全然分からへん…etc...

反応という反応の瞬間的な移ろいを全身でぶわっっと一気に受け止めて、この子達も(前期は自宅でずっとオンラインやオンデマンドの授業だったので)、この1回1回の授業で、改めて色んなことを吸収したり感じ取っていくんだなぁと。(今年の1年生が本当に不遇で…涙。誰のせいでもない!今ここからやっていくしか無いのでね。)

そんな交わし合いの中で、わたしはつい「暗黙の了解」「無意識的な流れや癖」に関心がいくのですが。

この授業はグループワークが中心なんですね。そうすると、学生達の間に

・ハキハキしてる方が良い
・たくさん発言できる人が素晴らしい
・はやいのが良い
・効率的であらねば…

など、ある一定の文脈で「評価されるであろう」ことを、もう全力で無意識に、探してしまう

これって、長年の学校教育や家庭や社会の中で染み付いたこと。義務教育などなどの学校の先生方が「悪い」という意味ではなくって、みんな”良かれ”と思ってやっていることだ、というのがミソでして・・・

効率的な方へ向かわなくては、という「檻」に、私たち大人側がどれだけ自覚的であれるか?を、いつもいつも、思います。

合理的である、ということが今この現代では尊ばれるけれど、でも、それ以外が「悪い」「低い」ということって、人間・いのちの側からは”あり得ない”こと。
そういうことばっかり考えてるとますますモゴモゴと口ごもって何も言えなくなってしまうんだけれど…。やっぱり、何かにあまりにも偏ると、何かを決定的に見落としてしまうぞと。自戒を込め続けて。

他者と出会い、そこはかとなく多くを共有し合う中で、
”全てをありとした上で”
1つ1つを選び続けるという
ある種の”余地”を残し続ける感覚。

短縮になって彼らには僅か6回しか対面できないけれど、「1つだけの正解を求めなくて良いよ」っていうことがじんわり伝わったら良いなと。
(これってやってみると結構苦しいこと。慣れ親しんだ時間の長い大人達の方が苦労しますよ、実際は。1個の正解を出さずに、何かを紡いでゆくことって。←ここに無自覚で、「今どきの若者は~」とか言う大人を見ると、どの口が言うとるんじゃこらくそぼけ、と内心思ってたりしますw あ、読者さんの多くが親御さん世代でしたw どこか刺してたらごめんなさい…。)

これらをつくってきたのは先に生まれた大人側。一方で、学生達はそこに無抵抗かというともちろんそうではなくて、その流れをぶったぎったり、乗っかったり、というこは、1人1人本人達の課題。

社会や集団からいつも頭半分出しながら、
一方で深く深く自分の奥底に潜りながら。

ほんとうに、ただ”じぶん”であれ!!!!

と、心からいつもいつも、そう願ってます。自分って、固定したものじゃない。40人いる教室に1歩入れば、それだけで自分(あなた)は微妙に変化してしまう。

早いとか遅いとか
しゃべるのうまいとか下手とか
明るいとかPC使えるとか(笑)、

そんな切り取った一部分で「あなた」は本来的には定義され得ない。
そんな小さいところで定義はされず自在に変化し続け、でも一方で「ああ、ここはもうどうにも手放せへん!」という変わりにくい部分だって持ち続ける。

そういう、”じぶん”であれ。

そんなことが、じわっと伝わったら良いなと思いつつ。これ自体も強制することではないこと。

大学講師として言うべきことやるべきことはもちろんやる。(超わかりやすく、効率的にね。)同時に、わたし個人として大事な価値観を再確認させてもらった1日でした^ ^