歌う心身で生きよ。 - 分からないまま、在る。【声ブログ】(6:38)
最近、知識的なこと、頭の理解だと追い付かない、経験したことがないことが身近に多発していて。
結構、焦ることが多い٩( 'ω' )و💨笑
もちろん、毎日の変わらない「日常」だと思っていることも、全く1mmも違わず”それ”であることって何一つ無いから、どこにレンズのフォーカスを当てるか?の違いだけであって、本来的には人は毎日まったく予測不可能な毎日を生きてはいるんだけれど。
とはいえやっぱり、予測可能なことは心理的安全性にも繋がっているわけで(笑)
最初は、この世の中で生きるには、自分の理解を超えて、例えばこんな不思議もあるんだな~、”その”不思議を、「あり」として慣れていこう!そうしよう!!と思ったんですけど、
そう思った矢先に、今度はさらに理解不能な出来事が起こって^ ^;
長岡、朝から一生懸命考えました(笑)
・・・そうか、これは「慣れどころ」が違うんだなと。
レンズのフォーカスは”その”不思議な出来事ひとつじゃなくて、
「この世界は、全く予想できなかったり、あり得ないことが起きたり、”分からないことが沢山あるまま、生きる”、ということ自体に、慣れる」んだなと。
「体」のことに焦点を当てると、確かにそりゃもう、分からないことだらけなんですよね。所謂病気とか、痛み一つとっても、そのいち現象が「なぜ、そのようなのか?」が、本当のところは「分からない」ことって、いっぱいある。全てが「科学的」「論理的」に解説でき「コントロール可能」であるなんて、ちゃんちゃらおかしい、傲慢な態度よなと。
「他者」とて同じ。私の知っている連続体としての彼、彼女がなぜそんな行動を?なんでそんなこと言うの?なんでそんな選択したの!?なんて、こちらが全部頭で分かって、腹落ちできることばかりなはずがない(笑)
もっと分からないのは「自分」という存在単位についても、ですよね。
昔、人前で話すのが苦手だったけれど、今は人前でバンバン喋る仕事してます!なんて人沢山いて、その自分がなぜ、そのようであるか?なんて、全部は分かったようで、分からない。複合的で複雑な現象であるという意味では、シンプル。
この土にどんな花が咲くか?なんて、
人間が植えた種から咲いたそれだけであるなんてこともちろんない。
そこにどんな種が運ばれてきてどんな花を咲かせるのか、本当のところは誰にも理解はおよばない。偶発性を含み続けるということ、たまにぶっとんだことが起こること(笑)、理論的なことばかりでないこと。
いやはや・・・これは、相当、
「前提を崩せ、変えよ」ということかなぁと(笑)
*
で、これ、どういうふうに構えをつくるか?
と色々考えていて、
「あぁやっぱり、
歌っている時のあの「心身」で生きるってことだな。」
と、(理由なく)ふと、思ったんですよね。
答えはあそこに全部詰まっているし、理論を超えたあり方の体験として、知っている。
歌のステージって本当に本当に「一回性」の連続だということ。
同じは二度と無い。
「今ここ」しかないということ。
その日その時の体調、のどの調子、心持ち、その「今」の声しか出ないということ
連綿と続いてきた(例えば練習を積み重ねてきた)過去と、未来の可能性とを全てその一瞬に同時に含んでいる、「今」しか無いこと。
そして、他者存在、物質たちを含んだ広い空間感覚のほうを「じぶん」として居る(ある)感覚。
これらを、たぶん、日常に持ち込むっていうことなんだなぁ。と。
概念的には私の長らくのテーマではあるんですけど、ちょっとここ最近の体験をきっかけに、これにまじめにまともに、向き合ってみようと。
どうやってやるんか、全然わからんけど(笑)
(今日はよーわからん話ですんません。笑)
ではでは!