M.nagaoka’s notes

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9.原因探しじゃなく、どうしたいかだった。 - 解決方法探訪録

*この記事はnoteで連載中のコラム『探究録の整理棚』より転載しています。

 

死ぬのに生きている、この日常そのものの恐怖たる生きづらさ。ここまで綴ってきた20代後半から30代中旬の探究生活を振り返ると、その根底にはいつも「生きづらさの原因を特定し、解消せねばならない。」という強い強い信念があった。「物事には必ず原因があり、それを特定できるはずで、そしてそれらを直したり変えたりすることで”良い”状態にすべきだ。」という、当然のように従っていた思い。この信念に裏打ちされた私にとっての心や体の探究とはすなわち、「人と人とは何が同じで、どんなふうに違うのか?」という、人間そのものを理解してみることの探究でもあった。そうして人間存在を様々な角度から理解してみることで、人とは異なる自分自身の"悪い所"を突き止めることさえできれば、息がしやすく、生きやすくなるのではないか?そんな期待があった。

物事に因果関係を見出そうとする態度は我々人間のごく自然なふるまいとも言える。しかし、私の生きづらさ問題は、この〈原因を特定すれば解決できる〉という強い思い込み自体をハッキリと認識し抜け出すことでしか、終止符を打つことができなかったように思う。

今回は、10年近くに及んだ原因探しと解決法探しの、旅の記録。

 

■最も鋭い,ナイフをちょうだい。

様々に学んで行くと、生きづらさの要因はなんとびっくり、続々と発見できた。

例えば、幼少期を中心とした成育歴。トラウマや愛着形成のこと、親を中心に兄弟との関係性など育った環境がどれだけ個人の精神に影響を及ぼすかということ。
「…ふむ、殴られて育ったわけではなくとも、子どもってある意味勝手に傷つくんだな。私にもそういう側面も少しはあったかもしれないな。」

例えば、生得的なこと。感受性傾向や敏感さといった気質特性や、脳機能の個体差を中心とした認知特性は、知れば知るほどに多様で1人として同じ人間など居ないことを明らめた。このことで日常生活に不具合があったり、平均値から外れることで時代や社会といった外部環境にそぐわないなどの際に、それらは生きづらさや障壁として立ち現れる。
「…そうか、そもそも持って生まれたものが、こんな風に違っていたんだな。どうしようもできないと知るだけで楽になることって、あるんだな。」

これら生得的な個体差は当然、日々の後天的な環境からフィートバックを受け続けるし、人は持って生まれたものと事後的に獲得してゆくものとで構成されるのだから、”その人をその人たらしめるもの”は一瞬たりともそこに留まらず、変化し続ける。例えば分かりやすく原因探しの矛先を向けたパーソナリティ障害や神経症、精神疾患と分類されるような事々は、生きづらさの”要因”とももちろん呼べるが、その人個人という心身現象に立ち現れてきた”結果”とも言えてしまう。だんだんと、この犯人捜しという行為そのものに無理があるようにも思えてきた。
「…ふむ、私にもあれこれ部分的に当てはまるんだから、言おうと思えば障害や症状だらけだとも言えてしまうし、かと言って特定の何かというわけでもない気がするなぁ。」「…で、そんな自分と、どう付き合っていけば良いんだっけ…?」

他にも、脳科学や神経学,認知科学,量子力学といったいわゆる科学的な見解からの人間理解、哲学や仏教など思想面から見た人間理解、前述の身体論的な立場からの人間理解なども探究の大きな助けとなった。だが、一部の人達がそうするように、いずれかのフレームを”全て”だとして自分自身を語り切ることは私にはできなかったし、かと言って、語り得ない部分を見て見ぬふりをする限り、延々とこの生きづらさとしか呼び留められない感覚に応答できないような気がした。やればやるほど、ほんの少し、小骨が喉に引っかかったままのような、そんな違和感の残渣。

「…まぁ、はっきり言えることは、人間とは何かって、”実は色々,よく分からない”ってことだな。」「…ふむ。…じゃあ、意識がある、存在しているって、結局どういうことなんだろう?」

一つの探究の果てには、新たな探究テーマがやってくる。行きつ戻りつ、少しずつ自分なりに気づきを重ね、私は次々湧き出る自らの問いに、必死に答えようとしていた。

(こうして、あちこち寄り道しながら進んだ人間理解の果てに、「良いとか悪いとか、強いとか弱いとか、変とかふつうとか、何らかの解釈を付けた自分や個性といったことは、常に関係性の中にしか規定され得ないものなんだ。」と深く理解を重ねられたことは、とても重要なことだったように思う。)

因果関係の探究以外にも、何かが欠落しどこかに不具合があるはずの自分を治療し矯正するための手法も、様々に探し求めた。
例えばマイナスを0に戻すような、心理療法。心に傷があると仮定すれば、カウンセリングやヒーリングと呼ばれる方法で傷を癒すことは当然有効なこと。(実際、トラウマ治療に長けた信頼できるカウンセラーさんとの出会いは、振り返ってみても非常に有難いものだった。)
他にも、呼吸法やボディワーク、瞑想やマインドフルネスといった心身の習慣へアプローチし土台づくりをするような種類のもの。特定の技法には何ら傾倒できなかったが、この分野の重要性を理解したことが、前回記事で記載した心身探究における”静けさ”の感得へと繋がっている。
また、現実を変えるためのコーチングやコンサルティングの技法についても、実に様々な立場のものに触れてみた。

…まだまだ書ききれないし、あれだけ様々にやってきたことをたった一記事にまとめてしまうことに困難さを覚える程には、結構な”ジプシー”具合だったと思う。

・・・それでも。

いくら原因を探し、「仕方がない。」と過去や現在をあきらめたり、「なるほどそういうことだったのか!」と現在への理解を重ねても、それでも、得体の知れない生きづらさそのものは、軽減こそすれ解消はされなかったし、どこぞの広告の体験談に載っているような「私はこれで救われました。人生が変わりました!」といった、魔法のような、切れ味の鋭いナイフのような解決策に出会うことも、もちろん無かった。

 

■旅路の果てに、転がり込んだもの。
こんなにも沢山、散々学んで、努力して、自分を正そう・変えようと必死なのにな。もちろんあの頃よりも、随分生きやすくなってはいるけれど。でもな。

満足の陰に気だるい不満足を蓄え、少しの疲労感にすっかり覆われた、ある日のこと。

それは本当に何気ない、友人との会話のやり取りだった。

私「久しぶり~。どう?最近。元気?」
友人「忙しいわ~。んー、まぁでも、なんだかんだ、楽しくやってるよ!」

 

・・・。

一瞬。友人には気付かれない程度に、一瞬だけ、私の中の時が止まった。

息をのんだ。

あれ・・・?

私が本当に欲しかったものって、シンプルに、こういうことだったんじゃないだろうか・・・?

自分の悪事を暴くような原因探しと、矯正のための方法論の吟味とを、やってやって、疲れ果てて、何かが満ちた先にようやく出会った、たどり着きたかったこと。

それは。

 

「生きるって、大変。そして、生きてるよ。(ニッコリ)」

 

ただ、ただ、そんなふうに言える自分で、在りたい。たったそれだけのことだったんじゃないか。

探せば探すほど、原因は見つかるし、解消だってしてきた。それでも、言い得ない生きづらさは消えないのだから、まだきっと、私には悪い所が、人とは違う困ったところが、きっとあるはず。これが続くのが怖い、不安、心配・・・。

ちょっと待て。見るべきは、この、ぐるぐるした自分そのものではなかったか?原因の無い生きづらさとは即ち、自分が、不安や恐怖をつくり続けていること、それ自体。自分の引き起こしている現象そのものへの、不満足。

生きていると、色々ある。生きていると、いくらでも不足や不安や恐怖を発見できる。生きるとは、喜びや嬉しさ、心地良さが存在する分、苦しみや辛さ、悲しみが存在する。それを味わうことが生きることだと、いくら概念的には理解できても、私はこの「存在に伴う痛み」を全力で避けて避けて、逃げようとしていたのだ。そのことに、ようやく、ハッキリと気が付くことができたのだった。

沢山学んで、沢山歩き回って体験してきて、本当に良かった。どんな解釈にも、どんな道具や方法論にも、正解もベストも無かったことを知ることができたから。それを心底味わったからこそ出会えた、欲しかった、自分。

「生きるって、大変。そして、生きてるよ。(ニッコリ)」


…じゃあ今、たった今ここで、そう在るしかないじゃないか。

がっくりと、凛とした、清々しさだった。

こうして私はまた一つの探究を終え、いよいよこの頃、大きな旅路の終わりにも近づいていたのだった。(つづく)


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このコラムは、私のカオスな脳内を整理してみる内的プロジェクトである。人によってはさらりと通ることのできるであろうことを、おぼつかない足取りであちこちフラフラしただけの不器用な旅路を整理し公開している。よって、何かを啓蒙するものでもないし、高尚な知識や便利なお役立ちノウハウを提供する文章でもない。けれどもし、縁あって読んでくださった方ご自身の、ごくごく内的な探究プロセスと共鳴するところがあれば、とても嬉しい^ ^