M.nagaoka’s notes

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6.「人間・じぶん」発見 - 体癖論との出会い。

*この記事はnoteで連載中のコラム『探究録の整理棚』より転載しています。

今回は、心の1年生の学びはじめ、私の探究プロセスの起点でありコアでもある体癖論との出会いのお話。体の再発見とか、自己受容とか。

■出会いと、「予感」。

「心って何?性格って何だろう?」 - このあたりの興味関心はもちろん早くから持っていたので、学校の図書館でそれらしき本を手に取ったりもしていたし、大学も、発達心理をベースに教育心理や学習心理といった分野が学べる学部であったことに魅かれて進学している。

ただ、そんなに、面白くなかったのだ(笑)

振り返って言えることだが、当時はまだ「問い」が十分に満ちていなかったんだと思う。自分で自分の得たいものが分からないのだから、ちょっとやそっと“お勉強”したところで、納得も発見も何にも、訪れない。
社会人になってからはますます、ある種必要に迫られ心理系の書籍等に目を通す機会も多くあったが、募る日常への苦しさと苛烈な多忙さの渦の中で一体何を手掛かりに学べば良いものか、すっかり途方に暮れていた。「早く“何か”に辿り着きたい。一体何を掴んだら自分は満足するんだろう?」そんなふうに、漠然といつも暗闇の中で何かを探しているような感覚だった。

さて「心の1年生」つぶやき宣言(※前回記事参照)から遡ること半年と少し前、私はふとしたきっかけで購読を始めた精神科医・名越康文氏のメールマガジンで一風変わったとある理論に出会っていた。体型や顔,雰囲気など外見的要素から、人の持って生まれた気質としての性格を類別するというものだった。どうやら、整体の体癖(たいへき)なるものを援用しているらしい。(※名越氏は、野口整体創始者・野口晴哉氏のご子息で身体教育研究所所長・野口裕之氏より体癖論を修められ、ご自身の臨床経験をふまえて性格分類論として再構築。私塾等で教え始められた頃だった。)

メールマガジンの文面から伝えられる、これまで触れたことのない種類のある種生々しいリアルな人間の心理描写に、私は強く引き込まれた。

で、え。背中が薄い?声にハリがある?首の太さが何だって・・?そんなことと心のこととに、一体どんな関係が…!?

「ここには、知りたい“何か”がある…!」

当時、つまりいよいよ心身が限界に来ていた頃の私は、「今ここにあるこれらでは全くない、何か」を希求するヒリヒリとした渇望が頂点に達していたと言える。その年の年末、不注意の事故をきっかけに本気で自分を人間を知ろうと決心した私が真っ先に取った行動は、自分自身のこの「予感」の方へと、自ら出向いてゆくことだった。(※事実、事故直後の異様な精神状態で過ごした年末年始、私はメルマガのバックナンバーを30本以上一気に購入し、貪るように読み込んで過ごしている笑)

この、体と心の理論との出合頭に湧き出た「予感」は、その後様々に形を変えながら、私の個人的な探究活動を長きに渡って照らし続けて行くことになる。

翌2013年より精神科医・名越康文氏の対面講座へ通い始め、性格論を中心に多くを学び(※名越先生にはそこから約6年、公私に渡り本当に手厚くご指導頂きました🙏)、学ぶだけでは飽き足らず、2016年に初めて「名越式性格分類・基礎講座」を開講。2017年に会社を辞め独立開業してからは、企業研修や治療家さん向けセミナー等のご縁もいただくようになっていく。伝える立場になると一層私の探究欲は加速し、体癖論に端を発した人間理解への挑戦は、心身論・身体心理分野を中心にしながら、認知や意識研究の分野(沼)へと、深く深く分け入って行くこととなる。

当時、心理学ではなくなぜ体癖論をそこまで?とよく質問を頂いたのだけれど、「予感」に理路整然とした理由などあるはずも無い。まだ見ぬ自分の到達したい何かは、必ず、想定の範囲の外側にあるのだから。

差し迫った状況由来の異常なまでの探究心の発露(笑)だったとは言え、こういった「論理を超えた己の直感につき従うこと」の面白さそれ自体は、生きる上で普遍的なものだ。

■体癖について(参考)

●「体癖研究」とは
人それぞれの特徴的な体の使い方を観察することによる、人間の生理、行動などに見られる個性的現象の研究。(※公益社団法人整体協会HP「活動内容」より)

● 野口晴哉先生について→

● 主な参考文献
『体癖』(ちくま文庫)→
『整体入門』(ちくま文庫)→

 

 

■あぁ。自分、居たわ・・・。

ところで「心」には明確な定義など存在しない。ゆえに文脈依存的な性格の強い言葉だと言えるし、まぁなんというか、学問上も臨床上も日常的にも、厄介な概念だ。

「心」を「心」としてもっと知りたい、理解したい、扱えるようになりたいと意気込んでもいまひとつ踏み込み方の分からなかった、頭でっかち+鎧の重装備の私にとっては、体癖論との出会いによって持ち込まれた「体」という視点それ自体、とてつもなく衝撃的なことだった。(ずっとここに、あったのに!)

参考までに、私自身が今、人の心身の癖の10類型を見出す際の主な観察ポイントは、このあたり。

 

体型・顔の特徴、表情・動き・姿勢の癖

声の特徴、話し方・話の内容の癖

雰囲気、圧、距離感、スピード感

 

…体という現場に観察できるこれらを統合し、その人の全体性を見ようとすることで、背景にある人間活動の運ばれ方の癖を見出す。(※野口整体の体癖そのものとは別の技術です🙏)

初めてこれをやろうとしてみると、まず「体を見る」しかも「全体的に、見る」ということ自体が、ほとんどの人にとってめちゃくちゃ、難しい。体型一つとっても例えば自分で自分をどんな体型だと認識しているのか、人から受ける印象を自分は一体どんなふうに受け取っているのか、さらにそれらは相対的にどう捉え位置付けて良いものか。
人は通常、見たいものだけを部分的に拾い上げて見ているものなので、日頃自分がいかに自分や人を見ていなかったかに直面するし、ごく一部分を取り上げて人を判断していたことに、心底驚愕する。ついでに、何をもって全体とするのか?こんな深淵な問いと出会ってしまったりもするのだ。

私は、性格論を学びたいがために取り組み始めた、この「人の全体性を捉えようとしてみることの鍛錬」をコツコツと重ねる中で、根本的な部分で自分の盲目さを突きつけられた。心と体とをあえて切り離していたこと、そして心だけを直そう変えようと操作していたことがいかに不自然なことかを、まざまざと体験したのだ。

例えば、

肩をすぼめ縮こまり、体を強張らせたままで、人は晴れた青空のように爽やかな気分を放つことが、できない。

…こんっなにも、こんなにもシンプルで当たり前すぎることをすっかり見過ごしてきたことに、自分はもうもうもう、超絶に大馬鹿ものだ!と思った。心の鎧をあれだけ着こむだけのことはある。

ああ、「体、不在。」で、生きてきたんだな…。うん、そりゃ変だ。しんどい。体をつまり自分を無視して不定愁訴にまみれた自分全部を、立て直さねば。…理屈抜きの、納得だ。

心と体は繋がっている!とか、心身一如とか、お題目に掲げても大して実感が無かった。何なら、そんなこと知ってるよ?とすら思っていた。私は体癖論の世界観を歩き回り自分なりに体験していく旅の中でやっと、この「持って生まれたこの体を生きている自分」という全体性と、出会った。

「ああ。自分、ちゃんとここに、居たわ。。。」

なんだか、そんな感じ。

■人間、じぶん。

体癖論を学ぶプロセスでエキサイティングだった気付きは幾つもあるが、何よりこういった、社会的な存在以前の(つまり家族や会社、対人関係や労働等を前提としない)、いち生き物としての「人間」、そして自分と出会い直したことが大きい。
生きることそのものへの恐怖持ちには、”社会適合”を前提とした理屈だけ説いても苦しくなる一方だったということだ。(あ、そうか。だからコミュニケーション理論とか引き寄せで夢実現☆みたいな、現実変化のみにフォーカスした類のものには魅かれなかったのか。)

仕事が早いとか、人と喋るのが上手いとか下手とか、そういった表面的な自己理解のほとんどは、社会的な軸による優劣評価から脱することが難しい。

体癖という人間研究に出会って、私は、自分が意図せず無意識的に、体ごと全部がつい一点に集中したがり、物事を掘り下げる方向に向かってしまうこと、だからこそ何かを途中で切り上げることが異様に苦手なこと、仕組みフェチなこと、”そもそも”が、口癖(笑)なこと…などなどなど、「人間・長岡美幸」と改めて出会って行った。

「自己受容」や「自尊心」という言葉がある。
親に殴られて育ったわけでもない、学校にだって通わせてもらった、友達だっている。なのに、苦しい。後天的な環境に生きづらさの要因の見いだせない自分は、先天的に何かが欠落しているに違いないと確信してこの学びの旅をスタートさせた私にとっては、それらは、何か凄まじい努力をしないと手にできない、特別なものだろうと思っていた。
しかし、この体ごと全部、「人間・じぶん」をただただ「自分とは、ただそのような傾向を持っている生き物なんだな(以上)。」と明らかに見て、自己認識そのものの理解が進むほどに、「”良い”とか”悪い”とか、評価づけていたのは、全部、自分が勝手にやって来たことだったんだ…!」と気が付いて行く。衝撃的すぎてすぐには受け入れられなかったけれど、不要な自己否定は徐々に、しかし確実に、おさまって行った。

自分を尊ぶということは、まっすぐ「人間・じぶん」をそれそのものとして、認識しようとすること。その構えだけで、十分だった。
自己受容と呼ぶものは、私の場合、それを追いかけ自分を直そう変えようと躍起になっているうちは決して手に入らず、あきらめて手を離した分だけ結果的に現れ出た、能動でも受動でもない、ただ「自分が自分である」ことの、静かな状態のことだった。

 

 

「自分はどこか、変なんじゃないか?」

- 心の1年生からのこの問いに、数年後の私は答えた。

「うん。全部変で、そして皆、変。」笑


個性的現象とはその人の全身に現れている。

この眼差しは、この後も、体癖論のさらに奥へ外へと、私を誘って行くのだった。(つづく)

 

 

 

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