M.nagaoka’s notes

~ Treat yourself, well ~

体癖とわたし③ - 心理学として

体癖論と私のこれまでを綴る連載記事。

www.m-nagaoka.net

www.m-nagaoka.net

 

前回、自己理解についてあまりにボリューミーに書きすぎて翌朝起きたらヘロヘロでした。。。それだけ、ど真ん中の所を扱った感覚がある。そして書けば書くほど、体癖ってすごい!と、体癖愛(笑)が溢れてきます(*^^*)

なんだか今日はですます調に戻っているので、このまま、ですます調で!^^

さて、①や②の記事で「私は9種体癖で」…とさらりと書いていますが、そもそも野口先生の体癖論は12類型で、名越式性格分類では、そのうちの主だった10のタイプを扱っています。「1種体癖」「2種体癖」…「10種体癖」と数字の名称で呼ぶものです。
「パンダさんタイプ☆」みたいな先入観の入りまくりそうな名称じゃ無いところが良いなーと、個人的には思っています(笑)

で、何度も繰り返しますが、「体癖論」はその名の通り、体の癖の違いです。(当たり前なんですけれど、なんです。整体ですからね。が先ではないのです。←ここ重要)

体の癖=心の癖。初めて読んでくださっている方の中には、なんで?とか、色々あるかもしれませんが、①の記事でご案内のとおり、この記事では体癖論そのものの詳細説明は省きますので、気になる方は…えっと、、、体癖カフェ最終回へどうぞ(?)笑

まぁでも、日本人らしいというか、この「心身一如」「心と体はセットだよね」という感覚、すっと入って来る方も多いはず^^(乱暴ですか?

この体癖論を、あえて「心理学」として扱っているというのが、名越式性格分類の立ち位置です。心理学講座ですから、講座に来て学んでくださっても、整体操法ができるようにはなりません(当たり前ですけれど)
体の専門家ではなく、「フツウ」の私たちが、「心」を扱うためのものとして再構築されている、と思った方が良いです。ですから、用語や基本概念は本来の野口先生の「体癖論」ですが、扱う部分、見る方向性などは、非常に「応用的」なものになっていると思います。

その意味でも、最も誤解を受けやすかったり、扱いに戸惑う人が多いけれど大切なことの一つに、名越式性格分類では、一人の人間のもつ「メインの癖」を、非常に、とっても、凄まじく重要視する、ということが挙げられます。1つだけ、ということです。

「長岡は9種だ」という表現は、より正確には「長岡の心に一番影響を及ぼしているのは、9種体癖だ」みたいな意味になりますが、これは、他の癖は「無い」と言っているのでは無いんです。ただ、「〇種と〇種と、あと〇種も!」みたいなことになると、無意識の心の癖を知るためのものが、顕在意識で都合のいいように当てはめて解釈することと何ら違いがなくなるんですよね。。。
このあたりは、身体操法としての体癖論と、おそらく立ち位置が異なる部分かなと思います(整体の体癖も、扱う個々人の先生方によってもちろん見方が異なりますしね)。
何かを主張したり否定したりしたいのではなく、立場の違いを分かっておいた方が良いよね、てな意味です。

(多くの人が体癖論に魅了される一方で、このあたり、丁寧に扱っていかないと、違和感や疑問、時には反発を感じる方も沢山おられる…ということを、伝える側に立ってみて痛い程感じ入りました。講座ではこのあたり丁寧に繰り返し扱っていきます。)

f:id:mnagaoka:20190802160741j:plain

さて、私たちは、こういった「性格論」を特段学ばなくとも、隣に座っている他者は、私とは全く異なる人である、わたしではない、と、知っています。けれど、では「どのように違うのか」については当然ながら、曖昧模糊としています。

このことにあまりに無頓着でいると、「自分と同じ=良い」の構図に無意識に陥ったり、もしくは「どこかにある、正しさ」を求めて、人や自分を断罪してしまったりするのだと思います。心理学・体癖論は、ここに光をあてる方便です。究極の相対論として、人の心を見てみようとする試み、とも言えます。

で、ですね。思うに、きっと多くの方が、フツウに暮らしていて「あの人はこんな感じの人!」「この人はこんなタイプだなぁ」と、経験を通して得た自分なりの尺度のようなものを、感覚値として持っていると思うんです。

これは私個人の解釈で、それも伝える立場になってから確信するに至ったことなんですが、体癖論は、何か特別な、正解の、唯一解としての「人間の分類論」を、外から新たに付け足すというものではなく、普段わたし達が身体的に感じている感覚に、枠組みと言語を与えたもの私たちの内側にあるものを、見える化したものだ、と思って扱っています。元々あるもの、ということ。

 

ここが、他の「性格論」と全く異なる部分だなぁーと心底思う所ですね。実感が伴う、ということ。

ただ、あえて書いてしまうと、その全体像を”実感”できるまでに、それこそ世に色々あるタイプ論より、ちょっと(いやだいぶ)習得まで時間がかかる類のものだと思います。
心理学・体癖論なんて簡単だよ、スグ分かるよ、スグ使えるよ、安いよ安いよ買ってってー!ってした方が、講座の集客はできるわけですが(笑)、そういう種類のものでもないよなーと言うのは、7年学んではっきり言えることです。

でも、だからこそ奥が深くて、懐が広いです。人間のカオティックさを十分に内包したまま、ぎりぎり10(12)に分類した、奇跡のような体系知だと、個人的な感想としてお伝えしています。

 

・・・だいたい、人間をキレイさっぱり10に分類するなんてさ、、、あーたそれ、無理ですから!!(笑)
そんなこと、知ってますよ、ちゃんとみんな。(みんなって誰だよ)

 

分けよう、数字に当てはめようと、人間を分断するためのものじゃない。
見えない違いを、見よう扱おうとするための、方便。

長年体癖論と付き合ううちに、そんな風に感じるようになりましたよ。

 

今日はなんか、難しい書き方になったなぁー。まいっか!
私が長年、野口先生の著書と名越先生の講義とを行ったり来たりして、無い頭でずっと感じてきた、心理学・体癖論とは何か?ということのまとめになった!^^

 

つづく。