M.nagaoka’s notes

~ Treat yourself, well ~

7.怖いのは、自分がまっすぐ見ていなかったから。

*この記事はnoteで連載中のコラム『探究録の整理棚』より転載しています。

今回は、前回記事で触れた「体癖論」の学びを通じて得た気付きのダイジェスト。掴めそうで掴めないことを把握したがる自分とか、対人恐怖の正体とか。


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幼少からの「生きづらさ問題」や「死の取り扱いについて」()は、本格的な探究期以降、「この世界があまりに不可解なままでは、恐ろしすぎて生きて行けない。」という叫びに変換された。恐怖由来のこの探究テーマは、底尽きぬ学びのガソリンとして湧き出で、我が拙い探究心を燃やし続けた。

生きるにはあまりに大変に思える、この世界。
どうせ死ぬのに生きている、私たち生き物。

今でこそ本当にただただ「可能な限り、自分なりに理解してみたかった」だけなんだな、と分かる()のだけれど、当時は真剣に、「どうせ死ぬなら生きなかったことにして欲しい。」とか、不遜にも「誰も生まれたいなんて頼んでない!」など思っていた。(後にセッションや講座等の提供を通して色々な方と出会い、この「死にたいというより、言わば”消えたい”としか言えない人たち」が、実はとても沢山いると知った。そういう人が私のまわりに集まりやすいとも言える。)

■心と体のタイプ論 - 無意識的な癖の領域においての。

さて、そんな背景に生き、怖がりで対人恐怖持ちの私にとって、体癖論のような「タイプ論(類型論)」に惹かれることは、ある種必然だったと言える。自分だけを知るのでは、足りない。人間とは何なのか?その全貌をできる限り、理解してみたかった。

私たちは、所謂「性格論」などを特段学ばなくとも、「隣に座っている他者は、自分とは全く異なる人物である」と、知っている。
けれど、では「どんなふうに、"違う"のか?」について出来る限り精緻に触れてみようとすると、なかなかにこれがどうして、難しい。

体癖論を援用した性格論は、生得的な「体」や「気質」の違いに由来する、無意識的な心の癖の領域のことを扱う。(後天的で常に変化してゆく方の"性格"じゃないよ、ということ。変わらないとは言い切れないが、非常に変わりづらい領域のこと。)

名越康文先生から体癖論を学び始めた際、講義で語られたエピソードで印象的だったものに、「お神輿を何十人かで担いでいてバランスを崩した時、人はそれぞれどんな反応をするか?」というテーマがある。当時先生が解説してくださったのは、初学者にも理解しやすいよう「逃げるか、残って支えるか」の行動パターンについてだった。

例えば、逃げ出す人。1人は、合理的な判断を常としやすい身体性から、瞬時に「生き残るために、離れる」。もう1人は、元来の動物的で本能的な身体要求の強さから「生き残るために、離れる」。
…行動は同じ。なのに、奥にある行動原理のようなものが異なっている・・!?

例えば、残って支える人。1人は日頃、他者から視線をエネルギーの種とし「ここで逃げたら名が廃る!」と、残って支える。1人は日頃、他者への貢献感を生存実感とし「ここぞ、支え時」と、残って支える。
…ふむ、ふむ。なるほど、そんな人いる。あっ、知り合いのあの人は、もしかしてこんな感覚で日々暮らしてるのかな・・・?

…たかだか無意識的な咄嗟の行動癖の背景に、こんなにもこんなにも、グラデーションがあるなんて!前提となっている”体の構え”が各々全くもって、異なるんだ。。果たしてそれまで、人をそんな風に見たことがあっただろうか?私は何かに愕然とすると同時に、もっと知りたい!と、好奇心を爆発させて行った。

後に、このお題を自分なりに掘り下げて行ってみると、自分なら逃げるか支えるかではなく、「そもそもこの危機的な状況を一斉にクリアするには?」「というか、お神輿が崩れないようにするには?」など、抜本的解決の方につい意識が向いてしまう、"根こそぎ思考癖"のようなものに気がついたりもした。「うわぁ、私いつも、仕事も人間関係も、根こそぎ思考でばかり捉えてるな!」「そんな自分、知ってたし、知らなかった。…でもそれ、知ってる!!!」自分自身に対する歯がゆい部分、理解したくてしきれなかった何かが明快に掴めていく感覚に、もう、驚きと興奮の連続だった。

…その後、さらにしつこく(笑)、お神輿のシーンを想像してみた。すると、体をはって人にまみれお神輿を担ぐこと自体を忌避したい人も居そうだな、と思った。所謂「高みの見物」を身体的快楽とする人は、一定数いる。思考への偏り。「これは、なんだかわかる。お神輿を担ぐより、設計図を描いたり計画表を作る方がいい。そういう人って確かに周りにいるし、自分にもそのモード、強くあるな。」「…他にはどんなタイプがある??」…など、など。

私はこんなふうに、「どこか知っているけれど、うまく掴めていないことの全体像を把握していくチャレンジ」に、とにかく異常に燃え(萌え)る。理由はない。これぞ体からの要求だとしか言えない種類のものだ。

体癖論との出会いは、私のこの望みを爆発させた。無意識的な心身の癖の領域なんて、普段注目したことも無かったが、知れば知るほど、これは上っ面ではなく人間まるごとを捉えようとする視線なんだと感じた。「やっぱり、めちゃくちゃ面白い!あの時、ここには何かあると思った通りだ!まだまだ、行ける所まで、行ってみたい!!」

この手のスイッチの入った時の私の探究心の強さたるや、お神輿ケーススタディ1つから幾通りもの「なるほど!」を生み出してしまうほどの執着を生む。高校3年生の時の、あの知的好奇心に動かされる感覚(※)とも通じる。とにかくしつこく、納得するまで頑として引かない「考え切ることの執念深さ」のようなものに、これまで自分自身が何度も振り回されて来たのだけれど、私をここまで運んできたのもまた、この強い探究心だった。

■あるがままを、観察する・・?

整体を生業とするわけではない我々が体の癖のタイプを見るにあたっては、人を観察することの技術を習得することになる。この観察というのは、何か特別な見方を得る「足し算」というよりも、人をあるがままに、そのまま見ようとする、言わば「引き算」の習得を意味するのだけれど、この学びのプロセスに一体どれだけの気づきがあっただろうか…!

例えば、体癖論に出会うまで、私は一番身近な存在である母親のことを、ずっと「自分とそっくりで、性格も当然似ている人」だと盲目的に信じ切っていた。(だから私は、苦労人の母と同じような苦労をするに違いないと思い込むほどに。)

だってさ、身長もほとんど一緒だし。顔も、母親の若い頃にそっくりって親戚のおっちゃん達が言ってたし。ほらお母さんも、ことあるごとに「そういう所、お母さんと一緒や。そっくりや。」って言ってるし。ウンウン。

ところが、だ。

前回記事で書いたように、例えば

体型・顔の特徴、表情・動き・姿勢の癖
声の特徴、話し方・話の内容の癖
雰囲気、圧、距離感、スピード感

などを通して、あらためて母親という一人間の「全体性」を観察しようとしてみると…

・・・わ、分からない。。。

そう、なんと、全くもって、「分からなかった」のだ…!!

あらためてそう言われると…体型・・・ん、え?あの体型を、「何」と捉えれば良いの?雰囲気?あれ、雰囲気。。。雰囲気って何だよ、どれのことだよ。雲をつかむみたいじゃないか。ちょっと待てよ、とはいえ雰囲気って言われるとさぁ・・・。私みたいな鋭さ、きゅっとした集中感・・・母親に、そんな雰囲気、微塵も無いじゃないか・・・!!えっ、声…?あれ?あれ!?声なんて、まるで違うやんかいさぁぁ・・・!!!

え、えええ~~~( ゚Д゚)💨💨💨。。プシュー(笑)

伝わるだろうか、この、ずっと見ていたはずの人が、一切、見えなくなったような、狐につままれたような感覚…!!(ね、ね!体癖学徒達みんなぁぁ~。←皆通る道☆)

身近な家族に対する、壮大な誤解の発見。もう、衝撃的だった。いかに、近くに居過ぎるがゆえ何も見ていないか、見ようとすらしていなかったか。思い知らされた。彼女をいち個人、いち人間として、私は一切扱ってこなかったんじゃないか。二十歳を超えてなお、へその緒が切れてすらいなかったんじゃないか。同一視していたのは、自分自身の方だったじゃないか・・・!と。

人は、どんな相手でも「きっとこうだろう。」「こうに違いない。」と、主観的な評価や判断を積み上げて行くものだ。それが身近な相手であればあるほど、その思い込みは強化され、枠の外側に出ることは認識すらしなくなる。人のことなんて分からないと頭では分かっていても、どうしても分かり切った気になってしまうものだ。

予測、期待、決めつけ。

私は、怖い怖いと思っていた他者存在の、一体何を見ていたんだろう?

彼ら彼女らの一挙手一投足に意味を見出し脅威だと感じていたそれは、他者を一切見ようともせず、自分の思い込みしか、見ていなかったということじゃないか…!

他人が怖かったんじゃない。自分の妄想で勝手に怖がっていたんだ。ああ、これぞ、自作自演。一人相撲。なんだか皆、自分も、ごめんね、ごめんね。。。

何年も何年も、コツコツと「あるがままを観察するとは、どういうこと?」という問いを深めながら、私は少しずつゆっくりと、そんなふうに考えるようになった。

人間を、知りたい。恐怖由来の探究は、裏側にある「おもしろい!」の好奇心の芽を育てるごとに、思ってもみなかった景色を自分に見せてくれるのだった。(つづく。)

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このコラムは、私のカオスな脳内を整理してみる内的プロジェクトである。人によってはさらりと通ることのできるであろうことを、おぼつかない足取りであちこちフラフラしただけの不器用な旅路を整理し公開している。よって、何かを啓蒙するものでもないし、高尚な知識や便利なお役立ちノウハウを提供する文章でもない。けれどもし、縁あって読んでくださった方ご自身の、ごくごく内的な探究プロセスと共鳴するところがあれば、とても嬉しい^ ^