さて、これまでで最も長~い期間をかけて扱った探究テーマ、ベスト2の発表です!3位は無し、上位2つ!だらららららら・・・・・だん!!
■1位✨:「生きづらいのですが?」
■2位✨:「死ってやつの、取り扱いについて。」
おお。でっかい。
思えば2つは密接に結びついていた。死生観とは”生きている”という日常風景の紡ぎ方そのもののことだから。当然と言えば、当然。とはいえ、死については、折に触れて思い出したり考えたりしつつも日常では忘れている時間が長い。となると、最も脳内を占めてきたテーマ・堂々の第1位は、もうもうもう、ぶっっちぎりで「生きづらさ問題!」ということになる。
これら2つはわざわざそれを「問い」として認識できないほど、物心ついた頃から30代半ばまで、べったりと、当然にように脳内を占めていた。年齢を重ねるにつれ、例えば世の中には「生きづらさに悩んでいない人」が存在するんだ…!?など知って、めちゃくちゃびっくりした。
とは言えまぁ、多くの人が人生のどこかで持ちやすい問いでもありますよね。
■…ぜんぶ、怖い。
私の幼少期を表す言葉は、「…怖い。」これに尽きる。ただただとにかく、ありとあらゆることが怖かった。あまり笑わない私を見て、母は「この子、毎日生きてて楽しいんかな?」と思ったのだとか。(母よ~すまんよ~)
何かの現象に「原因」を求めるというのは人間の好む振る舞いの一つなので、私も折に触れて自分のこの原因について考えてみた。
例えば、1歳頃のすべり台転落事件。近所の男の子に突き飛ばされて、すべり台の1番上から横に落ちたらしい。(あれ、前まで映像記憶があったのに今は思い出せなかった。)母にとって衝撃的な出来事だったようで、あれのせいで異様な怖がりになったんちゃう?とのこと。
ふむ。確かに私は高所恐怖症で(今も足元の不安定なところはめっちゃ怖い)、幼稚園や小学生時分、ジャングルジムもアスレチックも祖母宅の急な階段も、私にとっては地獄でしかなかった。ぶるぶる。
…が、これが恐怖感や生きづらさの要因か?と聞かれると、きっかけの一つではあったかもしれないけれど、ちょっと違う。
だって私、ちゃんと足が地面についていても、ド級の怖がりだったから😂(※「いつ誰かに危害を加えられるか分からない!」という構えを作ったのだとしたら、それはかなり大きいけれど。)
…原因とは、いくら推測できても、確定することができないものなのだ。
■怖がりの、怖いもの見たさ。
怖がりで人見知りな私だったが、一方で何でも自分でやりたがる面も強くあった。幼稚園頃だったか、1つ上の兄が所属していた地域のサッカークラブの催しで海への1泊旅行があった。兄弟姉妹もよければどうぞ、との案内に、「みゆきも行く!!」と即答で意気込んだらしい。人は、どんな時も自分の枠を乗り越えようとする欲動を持つものさ…!母は驚きつつ、まぁ、行きたいなら行っといで~。と送り出した。
案の定、意気込みとは裏腹に私は持ち前の極度の怖がりを発揮しまくった。空も海も灰色だったし(※たぶん記憶の捏造✋)、その海に浮かぶことも、知らない大人達の赤いジャージも、活発なサッカー少年たちの大きな声も、和室の広間のだだっ広さも、暗い夜の皆の寝息も、旅先っぽいごはんも、全部全部全部、怖くて仕方がなかった。明確な理由は分からない。不快だった。私はほとんど喋らず、笑わず、そして古びた和式のトイレで、吐いた。
「美幸ちゃん、あんまり楽しめなかったみたいで可哀想でした~。」そう申し送りを受けた母は、以後何度も何度も、この「頑張って行ってはみるけど、固まる。(ちーん。)」という私のパターン(※最近では場面緘黙などとも言う)に出くわしている。母も何かと気を揉んだだろうし、私自身この自分に随分長いこと振り回されたし、悩んだ。
怖がりエピソードも怖いもの見たさの撃沈エピソードも、どちらも枚挙にいとまがないが、一旦ここまで。とにかく過敏で、神経質で、怖がりな子どもだった。
■死んだら、どうなる?
小学校にあがると、私は部屋で1人、「死ぬ瞬間を想像してみること」(ミニワーク?)を、何度も何度も何度も、なぜか、やっていた。こちとらビビり日本代表級。これぞ、怖がりの怖いもの見たさである。
やり方は簡単!(やってみてね!笑)
① 目をつぶる
② この意識に集中する
③ それがフッと消えることを想像してみる
・・・なんと。(やってみた?)
・・・どうだろう。(やってみてね!笑)
全くもって、想像できないじゃないか・・・!!
とにかく、「無、は、一切想像できないことである。」ということ(←あらやだ、なんたる真理)に、私はその都度ゾッとして、怖くて怖くて、飛び上がっては無意味に部屋をウロウロしたりしたり、大急ぎでうつ伏せになって漫画を読みふけってみたりした。不審である(笑)
■死ぬ=怖い・・・!
小学4年の1月、阪神大震災が起きた。
私の地域は西宮市内でも六甲山の裏側に位置していて、被害は南側中心エリアに比べると小さなものだった。それでも、和室の壁がもげ、タンスや本棚が倒れガラスが飛び散り、緑色の屋根瓦が庭一面に落ちるくらいには、揺れた。ライフラインが短期間でも止まり長く余震の続いたあの非日常は、怖がりの私がさらに生き死にの恐怖を抱え込むには十分すぎるインパクトだった。
大地って、揺れるんだ…。(高所以外も恐怖じゃないか。)
どうして、何千人も死んで、私は生きているんだろう?
被害者ぶるな。おおごとにするな。
ぐる、ぐる。
「…死ぬことが、怖くないようになりたい。」
なんで、どうしてといくら問うても分からない。分かったら、怖くないかもしれないのに。誰も教えてくれない。怖い。
だったら、みんな(※自分からはそう見える)みたいに、”怖くない”ように、なりたい…!
…目標設定を誤った。私はだんだん、恐怖感に蓋をするようになった。死ぬ瞬間を想像してみる変なワークも、すっかりやらなくなっていた。かと言って「考えても仕方ないよ!」などとカラリとした諦めもついていなかったので、死は、真っ黒な「取扱不能ボックス」に放り込まれた状態で存在感を放ち、脳内の一定空間を占め続けた。癇癪や軽い自傷癖もこの頃から強くなったのかな?とにかくいつも鬱屈として、イライラしていた。
2001年、高校生の頃。
叔父さんがガンで亡くなった。
2005年、大学生の頃。
JR脱線事故で後輩が亡くなった。
2011年、社会人4年目。
後輩が自死で亡くなった。
私はそれら身近な死をどう捉えて良いか、全くもって分からなかった。なぜ?とか、どこから来るか分からない自責とか。取扱不能なそれらのどうしようもなさに(後輩達の死はとくに)身の置き所が分からず狂いそうで、苛立った。
■死を、生きづらさを、自分なりに理解したい!
その後、2013年からの本格的な自分探究,人間探究期の様々な学びの中で、この2大テーマは背後に長く君臨していたと言える。
追って記述できればいいなと思うけれど、死に関しては死そのものの理解ではなく、「存在とは?」という問いへの転換を経ることで、ロジカルに「それ自体をどうこう色をつけて扱う対象ではない」との納得を得て、落ち着いた。それには、科学的見解とその限界、仏教的世界観がとても役立ったのと、何より、2019年の父親の死という体験知が必要だった。
生きづらさの根本とも言えた、対象の無い原初的恐怖感については、散々、原因探しも解釈探しもやった。が、探せど探せど、無かった。
生きづらさ問題は、このコラム冒頭で書いた、終わることのない探究テーマ(「人間存在を(自分なりに)理解したい」)の明確なスタートと共に、あっけなく終わった。
あえて表現するなれば、生きているという現象そのものの恐怖。痛みによる、存在認識。
痛いのが、痛いのだ。
怖いのが、怖いのだ。
ある種の”痛覚過敏”状態、それに伴う所謂神経症的な状態だったと思っている。この解釈が生まれ落ちたときの感想は、
まじかぁ~~~~~
自分、何やってんだよ~~~~~~~~~。
だ😂
渦中は、自分が一体何を恐れ、その奥に何を欲していたのか本当に分からず、ひたすら目を閉じて耳も鼻もふさいで生きているようで、生きた心地がしなかったなぁ。うう。
ということで今回は、長~い期間をかけて扱った探究テーマ、ベスト2について、だった。次回からは、2013年以降の本格的なマニアック探究フェーズについてそのプロセスを整理してみる!つもり。
*noteからの転載です
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