M.nagaoka’s notes

~ Treat yourself, well ~

4.不器用さを、あきらめる。

■どんなふうに、見ている?

自分は、この世界を、どんなふうに見ているんだろう?
何に反応して、何に好奇心を掻き立てられるんだろう?

私は昔から、「この世界との接続の仕方」のようなもの、自分の「認知特性」とでも言えるそれに、とてつもなく興味津々なところがある。

"どうやら、人と自分とは、全く同じようには物事を認識していなようだ。"

言葉にするとあまりに当然すぎることだけれど、「じゃあ、自分と人とは、一体どんなふうに、違っている??」。このことを思うと、私はとにかく、異様に、めっちゃくちゃ!、探究モードに火がついてしまう。違い、を認識するには、同じ、を理解する必要があるし、違い、とは、一体どんな違いなのか。無数にあるそれを、無性に把握したくなってしまう。

今回は、学生時代の話題から。

■「ただ分かる」って、嬉しい!

中学1年生くらいですかね、数学で1次関数って習いますよね。

y=ax+b。

これを習った時、私、アホみたいに興奮したんです。

「うわぁぁああああ!!!そっか、小学校で習った比例(y=ax)って、これ(y=ax+b)の超~特別版って言えるやんね!!!数学とか算数って、特別でレアなケースの方から先に勉強してるのかな?ほへぇぇぇえ!」

・・・いや、だから何ってこともなく(笑)それだけなんですけどね(笑)

周囲はそんなことに目もくれていないことはよくかったし、「勉強」というものがだんだん難しく複雑になり日常生活とはかけ離れて行く、その予感にうんざりする方の感覚も持てたので、そのバカみたいな興奮の感覚を外に表現することは無かった。

私はこの時も、「ああ、自分って、こういうことにめちゃくちゃ面白みを感じる人間なんだなぁ~!」と、どこか他人事のように自分を理解し、黙々と無自覚な自己探究を面白がっていた。

生きるとは、そういうことだと言えてしまう。
人はいつも、こうして自分自身と出会い続けている。

ともかく私は、人生のあらゆる体験の中で、この「認知特性の理解」とか「感受性を知ること」に、静かに燃え(萌え)続けているのだ。笑

■不器用さを、引き受ける。

高3の夏。

夏と言えば、心血注いできた吹奏楽部の一大イベント、コンクールシーズンだ!野球部で言う夏の甲子園のようなもの。まさに3年間の集大成。地区大会、県大会…と続き、次に進めなければそこで引退となる。外部の指導者も招き、部をあげて緊張感と熱気あふれる練習が続いていた。

…が、私は内心、とても焦っていた。

私の進んだ高校は、地域のトップ層の集まる公立進学校。高3夏と言えば、既に学校中が「受験モード」に突入していたのだ。中学までは常に上位をキープしていた私の成績は、高校の膨大な詰め込み学習にいとも簡単に挫折し、ゆるゆると低下を続けていた。目標の大学には、だいぶ、かなり、厳しい状況。そんなヒリヒリとした、「受験生の夏」だ。部活は頑張りたい。でも、このままでは勉強はますます遅れてしまう…。

吹奏楽部で一緒に副部長をしていた仲良しのモン君(仮名)も、国立組だった。モン君は数学でしょっちゅう学年トップを取る秀才で、よく勉強の相談もしていたように思う。

ある時、モン君に数学の教科書を借りに行った時のこと。意外だった。教科書をめくると、にょろにょろとミミズのような線が散見されたのだ。

・・・ん? ま、間違いない。

このミミズは、居眠りで船をこいだ時の、鉛筆の痕跡じゃないか!笑

「まじか!モン君のやつめ、寝ながら学年トップって、一体どゆこと!?笑」

私は、寝ながら授業を受けても、同じ時間だけ部活をして、同じだけくだらない話で爆笑し合っていても、それでも数学の問題を難なく解けてしまう彼が、いや数学だけじゃない、部活でも飄々と色んなことをこなせてしまう彼が、急に眩しく感じた。

同時に、「”分かる”には、それ相応の時間とプロセスが必要だ」という強い思い込みのあった私には、なんだか得体の知れない存在のようにさえ思えたのだ。

もちのろん、彼は彼なりに努力していたことは言うまでも無い。そこに至るまでの彼にどれだけのことがあってその時の彼になったのかは知り得ない。ただ、よく知る友人だったからこそ、「持って生まれた違いみたいなものって、あるんだな。」と、妙に納得させられる出来事だったのだ。

ミミズの衝撃を胸に、私はいつも通り、学校帰りに自習室にこもった。学校と駅の間にある、ローソンの2階にあった、小さな予備校内の小さな自習室。

いつもそうしていたように、英単語の暗記から勉強を始めた。

そこで、私は明らめた。

「うん。私は、パッと見ただけではこの単語を覚えられない。」
「残念だけど、5回や10回書いたとて、覚えられない。」

世の中にはそういう人もいるのかもしれない。
でも、私には無理だ。

「・・・だったら、200回でも書けば良いんじゃないか!?」
「そうだ、スペルと意味を全身で感じながら、考えながら、書くんだ!いくらなんでも、それだけ量をこなせば、嫌でも覚える気がする!うん、やるしかない、やろう!!!」

 

こうして、自分の不器用さ、ドンくささ、ある意味でのフツウさをキッパリあきらめ(※諦めるの語源は”明らめる”ですね)、自分なりに努力と根性でやれるところまでやってみよう!!!と猛烈にひた走る、血眼の受験生が爆誕したのである(笑)

今思い返しても、あのスイッチが入って以降、自分がなぜあれだけ頑張れたのかよく分からない。8月半ばの県大会をもって部活を引退してからはますます、ゾーンに入るかのような凄まじい集中力で、そこから約半年を駆け抜けた。成績は分かりやすく伸びた。
勉強量はもちろんだが、自分をあきらめると同時に、あの「知るって,分かるって面白い!」力(←知的好奇心とも言えますね)が、戻ってきたのだ。自習室で、私は何度も「ほー!」とか「へー!」とか内心喜ぶ、変な受験生だったように思う(笑) 楽しいばかりでは決してなく、持ち前の神経質さも爆発し親には随分心配をかけたが、結果的に、行きたかった大学に進むこともでき受験シーズンを終えた。

人と人とは、違う。

これを思う時、つい、人は何らかの尺度で違いの中に優劣をはかってしまう。そして劣っていると感じればその自分を直そう、変えようと躍起になるものだ。

まずは「この自分をまっすぐ受け止め、明らかに見ること」。この淡々としたスタート地点の先にしか、まだ見ぬ自分の可能性に出会うことは無い。

このことを、高校生の自分に何度も学ばせて貰っている。

 

 

*noteからの転載です!

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